10月2日(火) 我がまちの飛行場~盾津飛行場の成り立ち~

                                                                                                    わかくす文芸研究会 太田 理(おおたおさむ)講師

 

 

 ~かって東大阪に飛行場があった。その名も盾津飛行場

                         (大阪 陸軍飛行場)~

 

太田先生の話に半数以上の人が「知らなかった!」と驚きの様子でした。近くに住んでいた人も、子供の頃の懐かしい風景として思い出す程度で、現在は盾津中学校に記念碑が残るのみで痕跡は何もありません。

 


 

盾津飛行場(大阪陸軍飛行場)概略

 

存廃:1934(昭和9)年9月完成、1945(昭和20)年8月終戦で撤収

 

場所:東大阪市本庄・新庄(東大阪市役所の北、トラックターミナルの辺り)

 

面積:約10万坪(33万㎡)長さ940m、幅560m、滑走路750m

 

飛行場建設の中心人物:笹川良一氏

 

 

 

147年に盾津中学校が開校。校舎は飛行場の建物で、骨組みだけになった格納庫や飛行機の残骸もあったそうです。

 

盾津中学校正門を入った所に「盾津飛行場跡地」の銘板(記念碑)があります。

 

 

 

銘板の内容

 

耕地整理が済んだ水田の真ん中に、大阪陸軍飛行場ができたのは昭和9年のことでした。民間からの寄付によりつくられたもので、大阪の防空と民間パイロットの養成を目的としていました。

 

 昭和10年ドイツからグライダー学校の校長ヒルトが来場し妙技を披露、航空(滑空)熱が高まりました。また関西学生航空連盟の練習場にもなっていたので、学生の全国大会が開かれたり、よく日本帆走飛行連盟のグライダー大会が催されました。昭和14年には大学生の軍事演習地として使われました。

 

 戦争末期には練習も大会も無くなり、ここで訓練を受けた学生が敵艦めがけ死んでいった悲しい出来事もありました。また当時すでに金属類が底をついており木製の飛行機造りが試みられたりしましたが、昭和208月戦争が終わり、盾津飛行場もその生涯を終えました。

 

 戦後50周年にあたりここに銘板を設置します。 (平成78月)

 

 

 

~戦争の遺産を後の世に 伝えるために~

 

 この講義で大勢の人が盾津飛行場のことを知ることが出来ました。悲惨な戦争の記憶が薄らぐ中で、二度と戦争を起こさないためにも、後の世へしっかりと記録を残し伝える、地道な活動をされている太田先生に感謝します。